■運動大好きな子ども時代
私は生まれも育ちも東京都文京区です。
謹厳実直で、曲がったことが嫌いな父と、優しく朗らかな母、そして姉の、4人家族で育ちました。
湯島小学校に通っていた当時の夢は、「プロ野球選手」。野球好きが高じて、小学3年生の時に、同級生と野球チーム「ホワイトタイガース」を立ち上げました。私のポジションはピッチャーで4番。他校や先輩学年のチームと対戦するなど、野球に明け暮れていました。
湯島や本郷など、地域のお祭りに連れて行ってもらったことは、貴重な思い出です。
文京区立湯島小学校に入学(自宅前で)
■スポーツに打ち込んだ学生時代
旧・文京区立第四中学校(旧第二中学校と統合し、本郷台中学校が開校)では、バスケ部に入りました。とにかく負けず嫌いの性格で、地道に練習を重ね、新人戦の時には都大会まで進出しました。
専修大学附属高校では、陸上部に転向。とことんやり込み、新たに始めた短距離で、都大会まで出場しました。
その後、専修大学経済学部に進学しました。
文京区立第四中学校に入学(自宅前で)
■中小零細企業の厳しさを知る
卒業後、家族が経営していた医療器械店で勤め始めました。手術台や手洗い台などの部品を購入し、組み立てたものを企業に売る仕事です。
他の進路も考えましたが、親への感謝が、私をそうさせたと思います。
ほどなく、大手企業の参入が相次ぎ、会社も大きな打撃を受けました。産業構造の変革に、区内の関連会社が衰退していくのを目の当たりにしました。中小零細企業や個人事業主の厳しさを身にしみて感じたのは、この時期です。
その後、父が亡くなったのを機に医療器械店を辞め、不動産業界に勤めました。
私の周りには、父のような本当の“庶民”が多くいました。労働組合もなく、小さな商店を営む、地域の方々です。その厳しさに、誰よりも共感できると自負しております。
公明党の立党精神は「大衆とともに」です。創立者の「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との言葉が淵源となっています。
富裕層でも、特定の労働者階級のためでもない、「大衆」のために生涯働き続ける。医療器械店での経験から、こう決意しました。
■どこまでもひとりを大切に 区議会議員へ
1999年(平成11年)、文京区議会議員選挙に立候補し、初当選させて頂きました。39歳の時です。
以来、5期20年。常に「現場第一」をモットーに、小さな声も聞き逃すまいと、取り組んで参りました。これまでに受けた区民相談は、約6,000件にのぼります。
区民の皆様の声から、多くの政策が実現しました。当時、23区でも初となる「文京区空家等対策事業」もその一つです。増え続ける一方の空き家を、ポケットパークなどに活用するものです。
文京区のコミュニティバス「B-ぐる」も、私たち公明党文京区議団でリードし、実現させました。坂道が多い文京区の土地柄、コミュニティバスの導入は大変に喜んでいただきました。現在、湯島・本郷エリアへの路線拡充に向けて、具体的に議論を進めています。
「文京区に安心と活力を!」――この思いで、これからも全力で働いてまいります。